2006年07月24日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「紺碧の海」はこちらです ***

(飛行船:76) 『飛行船の黄金時代』 第6章:グラーフ・ツェッペリンの南米飛行(2)

LZ127route1.jpg

(前回からの続き)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

大きな剛体の浮揚力と搭載重量は水素の量によって決まるので、高く上昇したときは自動弁によってガスを放出し、飛行船は地上/海上を出来るだけ低く飛ぶ。
燃料満載状態の離陸直後はそれが著しい。

従って「グラーフ・ツェッペリン」がフリードリッヒスハーフェンからリオに行く通常のルートは、バーゼルを経てフランスに入りブザンソンを通って飛び、リヨンからローヌ谷を下ってマルセイユの西およそ50マイルにあるサンマリーに行くコースであった。

ツェッペリンはフランスの領空を通過しなければならなかったが、フランス国民のゴール人としてのプライドと大戦の記憶が困難な政治的問題を生起し、それがヒットラーのドイツに対するさらに鋭い過剰反応になった。

フランス人の一部には、飛行船がスパイ活動に加担し、秘密の写真撮影をしているという疑念が拭えなかった。

1929年3月に「グラーフ・ツェッペリン」は東部地中海をめぐるクルーズを行った。
大企業シュナイダー・クルソ兵器工場の役員は、そのとき「グラーフ・ツェッペリン」がその工場の上空ちょうど650フィートをゆっくり飛んで、そのあと通常の速度で高度2300フィートで横切り、調査の結果写真撮影用の機材が見つかったと申し立てた。

1934年に「グラーフ・ツェッペリン」は、両側を飛行船の航行する高度よりかなり高い標高の山に挟まれた幅12マイルの専用航路を飛ぶように制限がかけられた。
航路の両側の家は警戒するように指示され、パリの電話番号(恐らく航空大臣であろうが)が伝えられ、飛行船が上空を通過するときに連絡するように申し渡された。

「グラーフ・ツェッペリン」がその航路を逸れることは決してなかった。
もしそうなれば、ドイツは南アメリカに行く途中、フランスの上空を飛ぶという絶対不可欠な特権を取りあげられる可能性があったからである。

(続く)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

挿し絵は「グラーフ・ツェッペリン」のフリードリッヒスハーフェンから南アメリカの目的地ペルナンブコのレシフェまでの飛行経路を示す海図である(同書、P50)。
[訳者註:この海図では、ビトリアがペルナンブコとバイアの間に描かれているが、ビトリアはバイア(サルバドル)のはるか南にある。]


Comment on "(飛行船:76) 『飛行船の黄金時代』 第6章:グラーフ・ツェッペリンの南米飛行(2)"

"(飛行船:76) 『飛行船の黄金時代』 第6章:グラーフ・ツェッペリンの南米飛行(2)"へのコメントはまだありません。