2006年07月16日
(飛行船:71) 『飛行船の黄金時代』 第3章:「グラーフ・ツェッペリン」(5)
(前回からの続き)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1930年5月18日から6月6日まで「グラーフ・ツェッペリン」ははじめての南米飛行を行った。
最初にセビリァに寄って、スペイン国王の従兄弟であるインファンテ・ドン・アルフォンゾ・ド・オルレアン氏を含むスペイン人の一行を乗船させた。
飛行船はカナリー諸島、セントポール岩、フェルディナンド・デ・ノロンナを経由してブラジルの北東端ペルナンブコのレシフェまで飛行した。
大きな飛行船はそこで2日間マストに繋留し、その後リオデジャネイロに向かった。
ここには繋留施設がなかったので滞在は短かった。
その後レシフェに戻りさらに2日間そこに留まった。
それから「グラーフ・ツェッペリンは」レークハーストに行き、そこで格納庫に入れられてアメリカ人が「ロスアンゼルス」のために開発した携行用繋留マストを紹介された。
アゾレス経由の帰途、ツェッペリンは再びセビリャに着地してスペインの客人を降ろしローヌの谷を上ってフリードリッヒスハーフェンに帰った。
最後の目覚ましい開拓飛行は1931年に実施された。
この飛行で「グラーフ・ツェッペリン」は4ヶ国から参加した12人の科学者と2名の記者(そのうちの一人は小説家アルツール・ケストラーであった)を乗せてレニングラードを経由して北極に向かった。
7月26日から30日までの5日間に飛行船はフランツ・ヨゼフ・ランドに進出しロシアの砕氷船「マリギン」と郵便物を交換するために水面に降下した。
ここ数年間「グラーフ・ツェッペリン」の飛行に多大な経済支援をしてくれた郵趣家の利益のためであった。
その後、気球により揚げられたラジオゾンデにより気象観測を行い、観測機器による地磁気の観測をした後「グラーフ・ツェッペリン」はセベルナヤゼムリアの西海岸まで飛行し、この未知の地域をパノラマ写真で測地した。
これらはチェリスキンからディクソンヘブンに至るシベリア沿岸の探査に引き継がれ、さらにレニングラードに戻るまでのノバヤゼムリアの測地まで続けられた。
科学的成果とは別に、この飛行は広報の面での大きな功績でもあった。
キャビンの内装を更新したあと「グラーフ・ツェッペリン」は1931年の秋に南アメリカに3回、旅客を乗せた計画飛行を行っている。
未だにリオには基地の設備がなく飛行はペルナンブコで終わり、乗客はそこからドイツのコンドルエアラインでブラジルの首都に行かなければならなかったからである。
この一連の飛行が成功したのでツェッペリン社は南アメリカ航路に集中することになった。
1932年には9名の乗客が海を渡り、翌年にはさらに9名がこれに続いた。
ブラジルのバルガス大統領は招かれてペルナンブコからリオまで乗船し、サンタクルズに飛行船基地の建物と格納庫の建設に当たって支援することに同意した。
1933年1月にナチ政権の成立により、早速「グラーフ・ツェッペリン」とツェッペリン社に圧力が掛かりはじめた。
5月1日、労働者の日に「グラーフ・ツェッペリン」はベルリンで開催された百万人の茶色シャツ(訳者註:SA=突撃隊)の祝典に姿を現した。
10月には飛行船もドイツ民間航空条令の適用を受けることになり、尾翼の左舷側にナチの旗(赤地に白の円を描きその中に黒で鉤十字)を描き、右舷側には黒、白、赤の横縞のドイツ国旗が描かれた。
その月、フリードリッヒスハーフェン、リオとオハイオ州アクロンのグッドイヤー飛行船基地を結ぶ三角飛行でエッケナー博士は「ナチ飛行船」に対する敵意にうろたえ落胆した。
「グラーフ・ツェッペリン」が招かれてシカゴ万国博に現れたとき、非常に強烈な印象だったのでエッケナー博士は舵手に命じて街を時計回りに旋回させた。
地上からひどく嫌われた左舷側の鉤十字が見えないようにしたのである。
南アメリカ旅客事業が運航上も採算的にも成功したのでツェッペリン社は1934年に2週間間隔で12回の往復運航を計画した。
最初の飛行はフリードリッヒスハーフェンを5月26日に離陸し、最終便は12月8日であった。
私が1934年6月9日にフリードリッヒスハーフェンを出発した第2便と、夏から秋にかけてさらに5回、この飛行に携わることが出来たことは非常に幸運であった。
(第3章 終わり)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
見出しの写真は前掲の「ZU GAST IM ZEPPELIN」から転載したもので、レシフェで繋留されている「グラーフ・ツェッペリン」である。
ほかにもレシフェに係船された写真はあるが、何れも椰子の木以外には粗末な掘っ建て小屋しかなかったようである。
エアコンもない炎天下で2日も過ごす苦労が忍ばれる。
無線室と調理室の発電機は風車駆動なので地上では役に立たなかった。
このポスターはドン・トーマス、曽我誉旨生、帆足孝治共著「伝説のエアライン・ポスター・アート」(イカロス出版刊)から転載したもので、1933年に発行された画家アントンの描く「グラーフ・ツェッペリン」である。
描かれている飛行船は「グラーフ・ツェッペリン」である。
同じ画家の「ヒンデンブルク」のポスターもある。
ドイツ海運の大手、HAPAGがツェッペリンの代理店であった。
地図にはフリードリッヒスハーフェン・バルセロナ・セビリァ・ペルナンブコ・リオデジャネイロと寄港地が示してある。
リオからブエノスアイレスまではドイツ資本のコンドル航空(ブラジル)が連絡していた。
「南アメリカまで3日間!」の文字が見える。
ブラジル・アルゼンチンにはドイツ移民が多かったのでツェッペリン社やルフトハンザは旅客もさることながら郵便物の空輸に力を入れていた。
上述のコンドル航空の1932年に発行されたポスターである(出典:同上)。
コンドル航空はルフトハンザとの関係が深く、ツェッペリンから乗り継いだ客をリオやブエノスアイレスに届けていた。
「ブラジルの未来は航空路の発展にかかっている。お金と時間の節約のためにコンドルを利用しよう」と謳われている。
描かれている飛行艇はドルニエの傑作艇WALである。
この写真は柘植久慶著「ノスタルジック写真集:ツェッペリン飛行船」(中央公論社刊)からの転載である。
北極圏飛行のために搭載された観測機材である。
着水に備えてカヤックまで積み込まれていた。
船底のハッチの様子も判る貴重な写真である。
上の写真と同じ出典である。
防寒用の装備やパイプ製の橇など非常状態に備えて様々なものが積み込まれたことが判る。
"(飛行船:71) 『飛行船の黄金時代』 第3章:「グラーフ・ツェッペリン」(5)"へのコメントはまだありません。