2006年07月08日

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(飛行船:64) 『飛行船の黄金時代』 第2章:大西洋横断旅客飛行船の夢(1)

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フリードリッヒスハーフェンにある滞在先のツェッペリン社は硬式飛行船が初めて作られたところで、今まで建造されて飛び上がった161隻のうち、119隻がここで建造された。

従って、フリードリッヒスハーフェンは飛行船のメッカであり、エッケナー博士の率いるツェッペリン飛行船製造社は飛行船にかかわる全ての知識の源であった。

フリードリッヒスハーフェンで建造された飛行船の殆どは第一次大戦中のドイツ陸海軍向けに建造されたが、ツェッペリン伯爵が1900年に「LZ1」を飛翔させる前から大陸間を空路で結ぶ夢は描かれていた。

1910年代の始め、ツェッペリン社の旅客輸送用の子会社DELAGは乗客を飛行船で飛行させていた。

この初期のツェッペリンには大洋横断能力はなかった。
船体中央部に20人か24人用の、外気から遮られた乗客用キャビンで暖かい日には解放できる大きな窓があり快適な籐椅子とテーブルがあり、梁と柱は象嵌で化粧され後部に化粧室と配膳室があった。

DELAGはドイツ国内の都市間飛行だけでなく遊覧飛行も行い、愛国的なドイツ国民のなかには一人当たり50ドル相当額を支払って大都市郊外の格納庫の近くを2時間飛行する者もいた。

初期の旅客用飛行船では就航後2〜3週間で壊れるものもあったが、後期のものは相当な人数の乗客を乗せることが出来た。

まだ、基本的にはPRのための運航であったが、ドイツ軍にも軍用に購入しようとする機運が現れていた。
ツェッペリンの第4の飛行船「LZ4」が24時間飛行を試行中に焼失した1908年のエヒターディンゲンの悲劇により、飛行船開発を止めてはならぬという大衆の「ツェッペリン熱」が沸き上がった。

戦時中の興奮状態で飛行船設計が飛躍的に進展した。
ツェッペリン飛行船を技術的にリードしたのはドイツ海軍であった。
ドイツ大洋艦隊の必要に応じて、効率的に敵艦艇の偵察や襲撃を行うために、カール・アルンシュタイン博士のような傑出した技術者を採用し、大幅に搭載容量を増した、さらに大きくより流線型にした船を求めたのである。

1917年には北海向けに改良された 2,418,700立法フィートの「L59」が、東アフリカでなお戦闘中のドイツ軍部隊のために15トンの貨物を搭載してブルガリアに出発した。
同船はカーツームから呼び戻されたとき4200マイルを25時間かけて基地に戻っている。

第一次大戦終了時点には「グラーフ・ツェッペリン」よりやや大きい 3,813,500立法フィートで、マイバッハの高々度用発動機を10基搭載し、計画有効載荷重量92トンの「L100」も建造されていた。

(続く)
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写真は第一次世界大戦末期の陸軍飛行船「L71」である。
フリードリッヒスハーフェンの飛行船工場の上空に飛揚している。
1918年7月29日に初飛行したが、1920年に英国に引き渡された(同書、P28)。

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