2006年07月03日
(飛行船:61) 『飛行船の黄金時代』 第1章:私の飛行船事始め(1)
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第1章:私の飛行船事始め
私がマサチューセッツ工科大学(MIT)に入学したのは1924年の秋、17歳の頃であった。
そのときは、のちに生涯にわたって大型飛行船とこれほどの結びつきが待っていようとは思わなかった。
1913年にMITではアメリカで初めて航空工学のコースに高度教育研究所が設置されていたが、私は機械工学の学位を志望していた。
しかし私は陸軍航空隊のROTCプログラムに興味をひかれてこれに申し込みをしたが、最初は旧いイースト・ボストン飛行場の見学で警備隊のパイロットがその辺りを第一次大戦当時の「ジェニー」や「デ・ハビランド」で飛び回ってる程度のことであった。
1927年のラングレイ飛行場での6週間にわたる夏季合宿はちょっと様子が違っていた。
双発のマーチン爆撃機の機首に座を占め、さらに嬉しいことに初めて飛行船に乗ったのである。
それは陸軍の軟式飛行船 "rubber cow" というグッドイヤー製のTC船であった(そのときは未だ知らなかったが)。
布製のバッグの下に乗組員と一緒に、多数のケーブルで吊り下げられた開放型ゴンドラに乗った。
その外側には2基のエンジンが取り付けられていた。
空中を浮遊することは素晴らしかった。
小さな、か弱い飛行機で飛ぶのとは違った感じであった。
その感覚は憶えている。
1929年に S.B. の資格を取り、予備航空隊に依嘱された。
1年後、ジョージア大、ニューヨーク大、それに私の居たMITなど名門からの24人とともに学位を授与され、グッドイヤー・タイヤ・ゴム会社で3ヶ月のスタッフ養成プログラムに採用された。
それが終わると配属希望の部門を選ぶことが出来た。
グッドイヤーは子会社グッドイヤー・ツェッペリンで飛行船を建造していることを知っていたのでラングレイ飛行場で空を飛ぶのも良いと思ったが最終的に機械設計の道を選んだ。
そこで最初の成功をおさめることが出来た。
長い間低迷しているVベルト部門は仕事がなかったので仕事は半日であった。
グッドイヤーの製品は競合他社より劣勢であった。
会社のベルト設計のハンドブック改訂を手伝い、短期間で開発されたVベルトは大成功だったので3直シフトで生産された。
恐らく、この小事件のおかげでグッドイヤー・タイヤ・ゴム会社の社長、ポール W.リッチフィールド氏が私を気にとめてくれたのであろう。
ゴム生産の大企業であるグッドイヤーは1911年からゴム引き布の飛行船を作ってきておりリッチフィールドは将来、軍需・民需の両分野で大きな可能性を秘めた巨大なツェッペリン型硬式飛行船の重要性を認識していた。
こうして1923年10月にフリードリッヒスハーフェンのツェッペリンを代表するヒューゴ・エッケナー博士と、オハイオ州アクロンにグッドイヤー・ツェッペリン社を設立することに合意した。
同社はツェッペリン社特許の北米での使用権を引き継ぎ、ツェッペリン飛行船製造社はドイツの特許のほかにアメリカの特許権を使用しアメリカの会社の株式の10%を保有するという契約であった。
さらに、ツェッペリン社の基幹要員が親会社の経験をグッドイヤー・ツェッペリンに伝えるためにアメリカに来るということになった。
ドイツの事業所の応力解析の主任者であるカール・アルンシュタイン博士を筆頭に13名の技術者が1924年10月に渡米した。
(続く)
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写真はグッドイヤー・ツェッペリン社の技術・設計陣の核としてグッドイヤーに来た最初のドイツ人グループ、カール・アルンシュタイン博士と彼の「12人の弟子」である。
写真は1924年10月に船上で撮られたものである。
前列左からシェッテル、シュナイツァー、アルンシュタイン、ブルナー、クレンペラー。中列 モーゼバッハ、リーガー、リーベルト。
後列 バウフ、ケック、ヒリガルト、ヘルマ、フィッシャーである。
(同書、P21)
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