2006年07月02日
(飛行船:60) 『飛行船の黄金時代』 序:ナチとエッケナー博士(7)
(前回からの続き)
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エッケナー博士とツェッペリンの名声にとって、事態はさらに深刻であった。
破損した船尾で実施された短い飛行から帰任したレーマン船長との打ち合わせで、エッケナー博士は立会者の面前で怒りを含んで「レーマン君、あの風の中で飛行船をどう操作しようとしたのか? 君は世界中でも馬鹿馬鹿しいこの飛行を延期する最良の言い訳が出来たはずだ。 君が飛行船を危機に曝したのはゲッベルスの不機嫌を避けるためだけではないか?」とレーマン船長を責めた。
宣伝相のゲッベルスがこの話を聞いたとき、記者会見を開いて次のような怒りの発表を行った。
「エッケナー博士は自分で自身を国家から遠ざけてしまった。 将来、彼の名がもはや新聞に載ることもなければ彼の写真が使われることもないであろう。」
その上、ナチ政府はエッケナーをツェッペリン社の会長として追い出し、大西洋横断ツェッペリン旅客輸送を行う運航会社の実権は、ナチの意向をより受けやすいレーマン船長に握らせようとした。
エッケナーの信念に基づく指導から外れて、ツェッペリン社はナチ帝国の他の機関と同じように危険な方法で生存手段を学ばねばならなくなった。
マックス・プルス、ハンス・フォン・シラー、アルバート・サムトなど若い船長達は老練な船長のようにそれほど伝統的で慎重な操船を行わなかった。
1937年5月6日、レークハーストでプルス船長は「ヒンデンブルク」を急旋回で繋留マストに向けた。
後の調査で、ドイツの調査委員会委員の1人であったエッケナー博士は航空相ゲーリングに面会して、急旋回は船体構造後部に過大な力を生じ、船体形状を保持するワイヤ切断の要因になると強硬に主張している。
彼は、はね返ったワイヤ端が後部気嚢を破り、大量の水素流出をもたらし、水素火災の直前に少なくとも2度目撃されているセントエルモの火がこれに点火したものと理論付けている。
このように1936年3月26日の「ヒンデンブルク」離陸時の誤操作が、その後のエッケナー博士とレーマン船長の反目を生じ、エッケナーをツェッペリン輸送会社の経営から追放したことが後年のレークハーストの惨事につながったとも言える。
61人の乗組員と36人の乗客を乗せた巨大なツェッペリンを、もし偉大な飛行船乗りヒューゴ・エッケナー博士が指揮を続けていたなら、間違いなくより細心の操船が行われていたに違いない。
最初のプロパガンダ飛行への離陸の際、ドイツ人の関係者・目撃者の中に1人のアメリカ人が居た。
彼はカメラを持っていて、損傷した垂直安定板の写真を撮った。
これが現在残っている唯一のものである。
ドイツ人達、特にナチの期間にいた人達は、国の威信を傷つける失敗に自意識過剰である。
レーベンタール飛行場のまわりを走り回った警備員とツェッペリン社の人はカメラを取りあげ、フィルムを破棄した。
しかし、アメリカ人はカメラをコートの下に隠していた。
このアメリカ人こそ誰あろう。
ハロルド G.ディックと言うオハイオ州アクロンのグッドイヤー・ツェッペリン社と親会社ツェッペリン飛行船製造の連絡員であった。
彼の1934年から1938年までの間のフリードリッヒスハーフェンにおける珍しい経験、「ヒンデンブルク」建造への関わり、「グラーフ・ツェペリン」の南アメリカへの飛行、「ヒンデンブルク」の南北アメリカへの飛行、それにエッケナー博士とその子息クヌートとの親しい交際がこの本の内容である。
(序章:ナチとエッケナー博士 おわり)
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見出しの写真は1936年3月26日、下部尾翼修理を終えプロパガンダ飛行に飛び立とうとしている「ヒンデンブルク」である。
「グラーフ・ツェッペリン」は上空に待機している。
この2隻で10万人以上の住むドイツ国内の町や都市の上空を巡航した。
2隻の巨大飛行船を捉えた珍しい写真である(同書、P109:撮影ハロルド G.ディック)。
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