2006年07月01日
(飛行船:59) 『飛行船の黄金時代』 序:ナチとエッケナー博士(6)
(前回からの続き)
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国際人で世界的視野をもちアメリカその他の国に多くの交流を持つエッケナーは暴力団のようなナチと、その野蛮なやり方が大嫌いだったので出来るだけ抵抗したが、あえて表立って反抗はしなかった。
彼自身が収監され、ツェッペリンの組織を直接支配されないように親体制に表立った抵抗をしなかったのである。
こうして、ゲッベルスが「グラーフ・ツェッペリン」と新しく完成した「ヒンデンブルク」が、プロパガンダのチラシが降り注ぎ拡声器による選挙運動の演説が行われた国民投票の行われた1936年3月29日の前に、3日間飛行を要求したとき、エッケナーは同意せざるを得なかった。
しかしこの場合、大型飛行船を運航する彼自身がナチの狙いであったことは彼の想像も及ばないことであった。
ナチはツェッペリン社の先任船長の1人、エルンスト・レーマンを「ヒンデンブルク」の船長に要望した。
エッケナー博士は、ただ「飛行船が政治目的に使われるようになれば、飛行船の終わりの時である。」と答えるしかなかった。
数年前、DELAG第2の飛行船の司令に初めて任命されたとき、エッケナーは期待して群衆が見守る中、著名な乗客を満載して「ドイッチュラントⅡ」を横風の吹きすさぶ状況で格納庫から引き出そうとしていた。
そのとき飛行船は風で地上員を振り払い、損傷してしまった。
このとき誰も怪我をしなかったのは不幸中の幸いであった。
それ以来、エッケナーは一貫して安全のために群衆の見学を断り、彼の部下達にも同じように細心の注意を払った行動をとるよう指示していた。
「ヒンデンブルク」をフリードリッヒスハーフェン・レーヴェンタールの格納庫から引き出すときの問題はちょっと状況が異なっていた。
格納庫は東西方向に向いており「ヒンデンブルク」の船首は西向きであった。
そこに東から時速18マイルの突風が吹いた。
吹き下ろし状況下で離陸せねばならなかった。
通常の風の中の離陸よりさらに難しい操船が必要であった。
レーマン船長は、このような吹き下ろし状態での経験が豊富であった。
フライトは午前4時に予定されていたが、彼は風が止むことを期待して離陸を2時間遅らせた。
その間にフリードリッヒスハーフェン近くの格納庫から順調に離陸した「グラーフ・ツェッペリン」はレーヴェンタール飛行場の上空を航行していた。
エッケナー博士の発した制止にもかかわらず、レーマンはプロパガンダ飛行に遅延するより吹き下ろしの風の中で離陸する危険を冒す決心をした。
「ヒンデンブルク」は数百人の地上員によって格納庫から引き出された。
全ての準備が完了する前に、予備静止索が外れ、船首がまだ前方の牽引車のまわりの地上員が押さえているのに船尾が立ち上がってしまった。
前部要員は牽引車を止めることが出来ず、牽引車は走り去ってしまった。
「ヒンデンブルク」は14度の傾斜で上向きになり、下部安定板と舵面は地上に尻餅をつき破損してしまった。
一時的に操縦不能となった巨大な飛行船は浮遊気球のように場外に流されていった。
幾つかの緊急修理部品が作られ、2時間53分の飛行ののち、巨大なツェッペリンは通常の着陸をした。
「ヒンデンブルク」の頑強な設計と建造のお陰で、損傷は全く局部的で垂直安定板の後下部と下部舵板の後下部に限定されていた。
損傷した舵板の6フィートが切り取られて整形され、下部安定板にも同様の改修が行われた。
3月26日の午後遅く「ヒンデンブルク」はフリードリッヒスハーフェンを離陸し「グラーフ・ツェッペリン」とともに3日間のプロパガンダ飛行を行っている。
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上の写真は、著者 Harold G. Dick氏の撮影になるものである。
ラインラント併合の国民投票に先立って3日間のプロパガンダ飛行に出発する1936年3月26日に離陸の際損傷した「ヒンデンブルク」の下部安定板である(同書、P17)。
こちらは応急処置後の「ヒンデンブルク」の下部安定板である。
「ヒンデンブルク」は3日間のプロパガンダ飛行をこの状態で行っている(同書、P19)。
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