2006年07月31日
(飛行船:82) 『飛行船の黄金時代』 第6章:グラーフ・ツェッペリンの南米飛行(8)
- bremen
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(前回からの続き)
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美しいフェルナンド・デ・ノロニャは南大西洋で赤道通過後最初の陸標であった。
この島は現在合衆国のミサイル追跡基地になっているが1930年代はブラジルの流刑の島であった。
見事な緑で覆われ、山と言うより丘のようでその周りに岩の尖塔が突き出していた。
孤島なので、居住者や生息動物は少なく滅多に見ることは出来なかった。
海岸線の大部分は切り立って絶壁をなしていたが、巨大な鮫の棲む浜もあった。
上空からこの巨大な恐ろしい鮫を見ることが出来たが、おそらく25フィートはあろうかと思われた。
どんな囚人でもこの島から脱出することが不可能なことは明白であった。
ペルナンブコではバラック兵舎のような建物に宿泊した。
ペルナンブコは正真正銘の熱帯であり、赤道から2〜3度南にあり[訳者註]標高は海面から僅かしかなく、寝床は蚊帳で覆われていた。
そこで好まれる飲み物はキニーネ水で割ったジンであったが、開封してない瓶からでなければ誰もジンを飲まなかった。
「グラーフ・ツェッペリン」は1935年4月25日にリオからの帰途ペルナンブコに行程表に載っていない寄港をしたことがある。
飛行船は早朝に到着したが大雨と強風のため、すぐには着陸できなかった。
近接するために飛行中、密度の高い白雲が海の方から寄ってきてそれに遭遇した。
「グラーフ・ツェッペリン」はこの雲の中を飛び続けたが、雲は移動して雨もなく大したことはなさそうであった。
飛行船が300フィートまで降下して飛行場に近づいたとき最初の雲と同じような雲に出会った。
最初の雲が大したこともなかったので今度も大丈夫だと思われた。
このとき飛行船は1100ポンド軽かったのであるが吹き飛ばされてしまった。
事実、その雲はしっかり熱帯の雨を含んでおり、数秒の間に飛行船に7トンもの重みを加えた。
投下可能な約5トンのバラストを投下したが飛行船は前進速度を少し増しただけで急に加わった重量を取り去るには至らなかった。
「グラーフ・ツェッペリン」は飛行場の手前約2000フィートで着地してしまい、下部方向舵はすっかりもぎ取られ、下部垂直安定板を飛行船が止まるまで300フィート地上を曳いてしまった。
後部発動機ゴンドラは数回地面にバウンドして最後は居住区のある主ゴンドラが地面にぶつかって操舵室の床が窪んでしまった。
「グラーフ・ツェッペリン」が止まったとき、現地人の小屋の煙突が飛行船の腹に突き刺さっていた。
小屋の中ではストーブに火が入っていた。
水素か燃料のブラウガスに点火しなかったことは信じがたいことであった。
後部発動機の操機手がゴンドラから飛び出して小屋に飛び込み、掛けてあったコーヒーポットでストーブの火を消した。
椰子の木も数本、飛行船にぶつけられていた。
不時着して間もなく雨は止み日が射して「グラーフ・ツェッペリン」は急に軽くなった。
整備員達は発動機のゴンドラを何とか不時着前の状態に戻した。
再び飛行船が浮揚したとき、下部方向舵が飛行船が不時着した場所から600フィートの地面に横たわっているのが見えた。
このとき「グラーフ・ツェッペリン」の幹部は舵を失ったことに気付き、直ちに後部発動機ゴンドラが付いているか確認するために後部に人を走らせた。
それから何とか着陸した。
下部方向舵は飛行船に縛り付けられ燃料を給油した後、上部方向舵のみ操作可能な状態でフリードリッヒスハーフェンまで帰投した。
飛行船の損傷は次の通りである。
下部方向舵欠損
下部方向舵の上の縦通材破損
下部方向安定板外端重大損傷
後部発動機ゴンドラ支柱屈曲
操舵室床損傷
外皮数ヶ所裂傷
ガソリンタンク1基椰子の木で破損
燃料パイプ3箇所破断
その他、ワイヤ・トラス・型材など構造部材小損傷
「グラーフ・ツェッペリン」はペルナンブコを予定通り出発し、フリードリッヒスハーフェンに火曜日の午前9時に予定通り到着した。
30人の乗組員は次のリオへの飛行が予定されている土曜日まで、殆ど昼夜兼行で船上で作業していた。
このときの「グラーフ・ツェッペリン」の司令はフォン・シラー船長であった。
フォン・シラー船長は1912年にドイツ海軍に入り、戦争のごく初期に飛行船の訓練を受け1914年から1918年までの間に5隻の海軍飛行船で数百時間の飛行時間を重ね、その後LZ126と「グラーフ・ツェッペリン」に乗船していた。
彼はまだエッケナー博士の教訓を信奉するところまで行っていなかった。
博士は最初DELAGで、後にはドイツ海軍で操船要員の指導・訓練に非常な成功をおさめた。
彼はまた、第一次大戦の始まる前から非常に多くの飛行船を上手く操船してきた。
エッケナー博士の基本的考え方は、人は満足のいくような状況を想定するのではなく、そうするためにはどうすればよいかを知るべきであるということであった。
もし想定が正しくなければ惨事が起こり、飛行船産業が崩壊する。
従って行動の前に上手く行く操作を知ることが絶対に必要である。
これが彼の全ての操作/操船の理由でなくてはならなかった。
ペルナンブコの事件は、博士の考え方に従っていれば起きなかった。
第2の白雲に関する想定が正しくなく、このため「グラーフ・ツェッペリン」は大惨事に巻き込まれたかも知れなかった。
乗組員がフリードリッヒスハーフェンに帰任後、博士は不確定なことをしてはならないと強調した。
彼の事務所の外のホールで、ドアにしっかり閂を掛けて精一杯そのことを強調したのである。
(第6章:おわり)
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写真はヴァイベル・キッセル共著「ZU GAST IM ZEPPELIN」(ツェッペリン博物館刊)から転載したレシフェの写真である。
前景の現地人の小屋の近くには子供とその母親らしい人物が写っている。
レシフェはペルナンブコ州の主都。1960年の人口約80万で、ブラジルのベネツィアと呼ばれる美しい街であるが飛行船の基地のまわりは写真のような状態であった。
ここレシフェで撮られた写真は幾つか見たが、みな同じようなアングルのものである。
美しいレシフェ市街を上空から撮った写真も多い。
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