2006年06月29日

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(飛行船:57) 『飛行船の黄金時代』 序:ナチとエッケナー博士(4)

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(前回からの続き)

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ツェッペリン社では、この大きな硬式飛行船で大洋を横断して旅客輸送が任せられる信望のあるのは1人の男で、その男でなければ達成出来ないと考えていた。

それはヒューゴ・エッケナー博士である。

バルト海沿岸フレンスブルクで1868年に生まれた熱心な外洋ヨットマンであり、社会経済学を専攻したエッケナーは偶然ツェッペリンの企業に関わることになる。

健康上の理由でフリードリッヒスハーフェンに移り住み、そこで「資本不足か労働力不足か?古い問題に対する新しい解答」という政治経済学の論文を執筆していた。

ここで彼はツェッペリン伯爵の初期の実験に興味を持ち、1909年に対外広報担当役員として組織に加わることになる。

ほどなく、エッケナーはもっと活動的な仕事がやりたくなってきた。

最初の商用ツェッペリン飛行船が遭難したあと、エッケナーは次船の指揮者になった。

それ以来、彼はDELAG(Deutsche Luftschiffahrts-Aktien-Gesellshaft: ドイツ飛行船運輸会社)の乗務役員となった。

彼自身、世界で初めての定期旅客輸送会社の経営方針や操船・運航の規範を確立するという前例のない立場に立ったエッケナーは、風や天候を何度も経験して得た独自の考え方を提起した。
全乗組員に、訓練を通して航空力学の理論や気象学、あらゆる天候における操船実務を身に付け効果的な全天候飛行業務を確立すべきであると説いた。

1910年から1914年までの間、DELAGは4隻のツェッペリン飛行船で1588回飛行を行い、10197名の乗客を1人の死者も重大な怪我もなく済ませることが出来たのはエッケナーの功績である。

第一次世界大戦の勃発とともにドイツの陸海軍の飛行船部隊は突然拡張され、DELAGの経験者を訓練指導に提供することになった。

エッケナーは、ドイツ海軍飛行船の輝かしい指揮官であるペーター・シュトラッサー中佐の技術面・運用面での指導者になった。

それは50隻以上の飛行船の乗組員、人数にすると千人を超える人間の訓練に責任を持つということであった。

こうして、戦争末期にエッケナーは大型飛行船の膨大な量の技術と運用に関わる知識と経験を蓄積していた。

このことにより彼の多大な知識と説得力のある人格が全期間を通して最も偉大な飛行船指揮者となったのである。

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写真は全ての飛行船に関わる人達の長老、ヒューゴ・エッケナー博士である(同書、P23)。
彼はナチに協力的でなかったので、もし世界的にあれほど有名でなかったら1934年の「長いナイフの夜」に恐らく殺害されていたであろう。

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