2006年06月27日
(飛行船:55)『飛行船の黄金時代』序:ナチとエッケナー博士(2)
タイトルが長いので今回から短縮略記することにした。
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1935年3月1日に、ベルサイユ条約で禁止されていた空軍が秘密裏に創設されたことがナチの空軍大臣ヘルマン・ゲーリングによって公表された。
3月16日にヒットラーは常設の軍備を宣言し、ベルサイユ条約で認められた10万人のドイツ国防軍を5倍にまで拡張する計画を発表した。
それから1年も経たないうちに最初の侵略が開始された。
1936年3月7日、ヒットラーはドイツの軍団をライン川西岸の非武装地帯に送り込んで占領したのである。
将軍達は吃驚したに違いない。
総参謀本部はフランスがイギリスの後押しによってアーヘン・トリール・ザールブリュッケンの大部隊を出動させるだろうと判断した。
しかし総統は戦争に疲れたフランスと、イギリスの政治家のナチに対する準備状況を正しく評価していた。
イギリスの支援がなければフランス政府は何もすることが出来ず、その結果、第二次世界大戦が始まる前にそれを阻止する機会を失ってしまった。
ドイツ国民は過剰に喜んだ。
ヒットラーは勝利者で、虚勢と威嚇で次々と成功を収め、彼自身だけでなく多くの将校も彼を軍事面の天才と思うようになっていた。
彼の無血の勝利が実証され、ヒットラーは3月29日に国民投票を行うと宣言した。
国民はライン地方の占領を認めるかどうかを投票するのである。
ヒットラー内閣の宣伝相である金切り声の魔王のようなヨゼフ・ゲッベルスはドイツ国民が「賛成」に投票し総統の方針を支持するように全力投入した。
宣伝相の最も華やかで印象的な宣伝手段の一つがボーデン湖畔フリードリッヒスハーフェンにあり世界中に良く知られたツェッペリン製造会社のツェッペリン飛行船であった。
ゲッベルスは、これをドイツ帝国の偉大な象徴にしようと思った。
ドイツ人のツェッペリンに対する熱い思いは第一次大戦よりずっと以前に遡る。
創始者のフェルディナンド・アウグスト・アドルフ・ツェッペリン伯爵はアドルフ・ヒットラーが政界に出るまえ、長い間地域で正統な英雄であった。
英国や合衆国では模倣者が居たものの多くが懐疑主義的で自国での支持が殆ど得られなかったのに対し、ドイツ人は殆ど信仰のようにドイツの卓越した科学技術、それにドイツ精神と文化の証拠のような上空に浮かぶ途方もなく大きな船「コロッサル」の出現を何度も熱烈に期待していた。
ドイツの国民的劣等感を埋め合わせることに関しツェッペリンに対抗できるものはなかった。
1900年に浮揚したツェッペリン最初の船「LZ1」は長さ420フィート、直径8フィートで当時としては巨大なものであった。
「LZ1」とその後続船は遅く、搭載量も僅かで伯爵は「狂気の発明家」とあざけられた。
逆説的ではあるが、その初期の災害によって伯爵は国内に知られるようになる。
1908年8月に伯爵は4番目の船「LZ4」で24時間連続飛行を試みてラインからマインツに沿った往路とフリードリッヒスハーフェンに戻る帰路で歓喜する群衆がドイツの街道を埋め尽くしているのを見た。
しかし24時間連続飛行は達成出来なかった。
シュトゥットガルト近郊のエヒターディンゲンで強制着陸しようとしたときにエンジントラブルを生じたのである。
「LZ4」は突風に飛ばされ地面に叩きつけられて炎上してしまった。
ドイツの人々の心に70歳の伯爵が彼の開発を続けて貰おうという特別な国民的熱意が沸き起こりフリードリッヒスハーフェンに寄付が寄せられた。
その総額は6百万マルクを超えたと言われている。
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写真はツェッペリン伯爵の最初の飛行船「LZ1」が、1900年7月2日にボーデンゼー(コンスタンツ湖)上の浮ドックから初めて浮揚した時のものである。
船は前後のゴンドラの間に吊られたウェイトによって撓みながら前後傾斜を調整している。
(同書:P26)
(訳者註:マンツェル近くのボーデンゼーに作られた浮ドックには後に格納庫が建設されている。
49回(『超大型旅客用飛行船の黄金時代』まえがき(2))に掲載した「グラーフ・ツェッペリン」の背景で直下に双塔の教会が見えるのがマンツェルの町である。
フリードリッヒスハーフェンの西約4kmの湖畔の町である。
彼の両親の家と墓地がこの地にあったのでここを最初の本拠地にしたと言われている。)
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