2006年06月21日

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(飛行船:50) 『超大型旅客用飛行船の黄金時代』 謝辞と註

LZ127toTokyo.jpg

『まえがき』に引き続き『謝辞』と『写真に関する註』を紹介する。

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『謝状』

私はヒューゴ・エッケナー博士に大変感謝している。
博士は私に新らしく特殊な開発の情報を提供し続けてくれたし「ヒンデンブルク」に関わり大変多い飛行を可能にしてくれた。
特に最初の試験飛行では私は船上でただ一人飛行船製造会社の従業員以外の人間であった。

ツェッペリン飛行船製造会社の技術者達は協力し援助してくれたし、飛行船会社の運航に携わる人達のことも特記しておかなくてはならない。
彼等の情報共有の気持ちなくしてはこの本は完成しなかった。

カール・アルンシュタイン博士の援助と支持も顕著であった。
「グラーフ・ツェッペリン」・「ヒンデンブルク」両船上に技術役員を乗せてツェッペリン飛行船製造会社の技術者と建造に携わる人と緊密な接触を望む彼の思いは、私のフリードリッヒスハーフェン滞在期間を通して貴重な体験となった。

クヌート・エッケナー氏には特に感謝している。彼は「ヒンデンブルク」と「グラーフ・ツェッペリンⅡ」の建造において具体的提案をしたばかりでなく、私のドイツ滞在をさらに有意義にするために自宅を私に開放しミュンヒェンのオクトーバフェストに招待してくれた。
さらに私にフリードリッヒスハーフェンの魅力的ポイントを幾つか紹介してくれた。

最後になったが、州立ウィチタ大学のイングリッシュ学部長であり米国史学部長のロス・テイラー博士に感謝している。
博士は私の5年間にわたるドイツ滞在期間に関し、技術分野に限らない膨大な記録を指導してくれた。
同じようにエッケナー博士、彼の息子クヌート、そのほかのツェッペリン飛行船製造会社の人々にも感謝している。
テイラー博士の指導なくしてこの本は執筆出来なかった。


『写真に関する註』

第二次大戦以前に、2人の著者はツェッペリン飛行船製造会社に公式写真について問い合わせ、多くの写真を彼等自身の使用のために複写した。
恐らく、写真原本は大戦中のフリードリッヒスハーフェンへの重爆撃で失われたのであろう。
事実、保存用写真は包装され町の周囲の村に分散していた。
しかし、ドイツの降伏後その地域を占領したフランスに差し押さえられ、どこかへ持ち去られてしまった。
1955年にロビンソン博士がフリードリッヒスハーフェン市が市役所の最上階に小さな博物館を計画していることを知り、市長のグリュンベック氏に手紙を書いてツェッペリン会社の写真を出版物に使うことについて問い合わせた。
グリュンベック氏はツェッペリン飛行船製造会社の写真を使うことを認めたが、紛失した原版の所有者にその出版物を送るように申し入れていた。
これは果たした。
その後、ドイツの官庁がツェッペリン会社の原版がパリの航空博物館に包装されたままの状態で存在することを知った。
西ドイツ政府の根気強い交渉の結果、これらの写真は最終的にフリードリッヒスハーフェンに戻って来た。

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写真は1929年8月15日、世界一周飛行の最初の寄港地東京に向けてフリードリッヒスハーフェンを離陸したLZ127「グラーフ・ツェッペリン」である。
この絵葉書は日本で印刷されたもので、文字が右から左に書かれている。

並航するのはユンカース単葉機らしい。
「ユンカースF13」は当時最新鋭の飛行機であったが、乗員2名、乗客4名のかわいいものであった。

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