2006年05月02日
尾道紀行(1) −大和ロケ地をめざして−
- bremen
- 18:19
このところ市内に籠もっていたので、尾道までゆっくり遊びに行ってきた。
今夜の宿だけ押さえておいて広島駅に11時頃出向いた。
山陽本線上りは西条とか中野とか近距離の電車が続くので呉線まわりで行くことにした。
「安芸路ライナー」と称して海田市のあたりから呉までノンストップである。
呉から先は各停で終点が広である。
広には海軍の工廠があった。
大正10年に設立された広工廠には航空機部が出来、川西航空機の甲南工場とともに我が国の飛行艇開発製作の拠点であった。
いまは知る人も少なくなった。
広に着くとプラットホームの向かい側に広発三原行きの各停が待っていた。
両方ともベンチシートの通勤通学用車両であった。
野呂山の登山口である安芸川尻は無人駅である。
3両だか4両だかの電車のドアは先頭車両を除いて閉鎖され、下車は先頭の前から運転者に定期券を見せ、あるいは料金を払って降りる。
乗車は先頭車両の後から乗る。
ワンマンカーである。
途中駅の竹原は倉敷ほど有名ではないが、山口県の柳井とともに白壁の町である。
忠海には国民休暇村の大久野島への渡船場がある。
安芸幸崎は造船会社で浚渫船の研究統轄をしていたときスエズ運河庁向けの大型カッタサクションドレッジャーの試運転で来たことがある。
この各停の終着、三原には事業所があり、N研修所の専任講師として単身赴任する前にシステム開発の仕様決定や開発実施でよく出張していた。
日帰りのつもりで来て最終の新幹線に乗れず宿泊したこともしばしばであった。
ここまで来れば山陽本線の電車に乗って次の停車駅が尾道である。
途中に糸崎の駅があるが我々の乗った電車は通過した。
広島から2時間以上掛かったが急ぐ旅ではないので車窓を楽しんでいた。
白いソバの花がまぶしく、桐やフジの紫紺の花が皐月が来たことを実感させてくれる。
ダイダイであろうか黄金色の柑橘系の実を付けていた。
ソラマメの花は見えたがジャガイモの花はもう少し先になるのだろう。
それにしても皐月だというのに鯉幟が見当たらなかった。
見出しの写真は尾道駅である。
いかにも小さな駅である。
2時近くになっていたので腹ごしらえをしようと駅の辺りをうろついてみたが食事出来そうなところがない。
商店街に入ってやっと見付けた店は月曜日で定休であった。
仕方なく海岸通りの小さなラーメン屋さんに入った。
入口にテーブルが3つ、スツールが8〜9基ほどの店である。
表から裏まで風通しも見通しも良い。
すぐ裏に尾道水道を走る渡船が見える。
店の名前は清水食堂、またの名をさびしんぼう食堂と言うそうである。
終戦直後に開店し大正元年生まれのウメノさんが看板娘である。
店は清水美江子さん、実さんの夫婦でやっている。
一人先客があった。
陳列ケースには魚の煮付けや巻きずしなど幾品かあり、メニューを見ると尾道名物の焼き穴子やちらし寿司もあるようであった。
我々は中華ソバと中華うどんを注文した。
出汁も具も同じで麺が違うだけである。
それでも交換して食べ較べてみよという。
店を出ると駅前の海岸端は木のデッキが貼ってあり、雁木に繋がれた漁船と渡船桟橋が見えた。
背景は千光寺山で街並みとの間を山陽本線が走っている。
尾道水道は川のように狭い。
その狭い海を渡す渡船の航路がいくつかある。
尾道水道に橋が架かる前は渡船業者もいまの倍以上いたのではないかと思う。
橋の開通とともに船を売り事業をたたむ業者が相次いだ。
橋は自動車専用橋と一般橋の2本架かっているが歩行者や自転車・バイクは橋まで登らず相変わらず渡船を利用している。
尾道は四国に渡るターミナルでもあった。
こちらは新幹線の開業とともに三原に移って行った。
開業当初は県内の駅は福山・三原・広島の3箇所しかなかったのである。
後年、新尾道駅が出来たが山間部で四国連絡には便利が悪い。
四国への連絡拠点であった尾道はすっかり寂れてしまった。
ここから海沿いに10分あまり歩いてホテルにチェックインした。
少し休憩して、身軽になって「男たちの大和」のロケ地に出掛けた。
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