2006年01月06日
(台湾紀行:4) 淡水再訪(2)
1872年にカナダ生まれの宣教師ジョージ・レスリー・マッカイ牧師が淡水に来て伝道と医療活動を行い、学校を作った。
現地では馬偕博士として知られている。
淡水には彼の立てた長老教会、牛津学堂(オックスフォード・カレッジ)、彼の子息偕叡廉氏の設立した淡江中学校などが残されている。
特に真理大学の一角にある牛津学堂はマッカイ牧師が西洋医学を教えるために祖国で資金を集めて設立したもので国家史跡になっている。
この教会は当時公会堂のあった高台から狭い坂道を下がったところにあった。
窓にはステンドグラスが見える。
教会の裏手に上がると分離帯のある大きな道路に出る。
地図で見ると中山路と記してある。
幼い記憶にも、父が晩年描き残した追憶の地図にも車の通れるような道はない。
おそらく人力車の時代から自動車の時代に移行する時期に新たに作られた道路であろう。
横断歩道橋を渡ってガジュマルの木陰の道を歩いてみた。見覚えのある道があった。
市街地のほうに下がるやっと車の通れるくらいの坂道である。
その坂を写真の木立の中から右に下って中山路に出たところにコンビニがあるが、昔もここに小さな店があったように思う。
地図には真理街とある。
マッカイ牧師の設てた神学校から発展した真理大学の表通りである。
そこに中学校があった。
門柱には「臺北縣立淡水国民中學」とあった。
もしかしたら私の生まれた淡水公会堂はこの辺りにあったのかも知れない。
公会堂からは淡水河に着水した川西の飛行艇がよく見えた。
真理大学、牛津学堂の傍に旧英領事館の建物が残っている。
小さい頃生け垣を潜って庭に入った記憶がある。
芝生のまわりの低い生け垣はハイビスカスである。
台湾のハイビスカスはハワイのもののように大きくない。
品種改良されて中国の行燈のような可愛い花もよく見かける。
この領事館は現在、観光施設「紅毛城」の区画に組み入れられており内部も見学出来る。
紅毛城である。
スペイン人が1629年に築いた砦であり、その後鄭成功、清朝、イギリスなどの管理を経て現在は台湾政府が管轄している。
昨年夏に来たときは改修工事で閉鎖されていたが今回は入園出来るようであった。
第二次大戦が終わったとき、日本人の資産は全て蒋介石政権に没収された。
そのため戦後60年を経過した現在も、当時の街長(町長)官舎も、台湾銀行淡水支店長社宅も、木造日本建築の建家も庭の植木も手入れされないまま放置されている。
まわりは再開発で新しくなっているのにその当時がそこだけ取り残されていた。
紅毛城入口の坂下の横断歩道を渡って河岸に出るところにも大きなガジュマルが立っていた。
よく繁るので木陰は薄暗い。
ここから河岸を車站まで歩いて帰った。
この時期民家の庭先などでスターフルーツが実を付けているのを見かけた。
断面が五芒星型をしているのでスターフルーツと言うが食べたことはない。
河畔は遊歩道になっている。
腰を下ろして河面を眺めている人もいる。
淡水の夕日は観光パンフレットに必ず載っているくらい有名である。
途中、展望テラスのあるサロンで氷水を飲んで休んだ。
テラスの正面は対岸の観音山である。
淡水の対岸にあたる八里は何もなかったが、最近観光スポットとしても開発途上にあるようである。
基龍のコンテナターミナルが飽和状態で淡水河口に大規模なコンテナヤードが建設中である。
下の写真の左手にあたる。
車站に戻る途中の渡船乗り場である。
対岸の八里まで渡る人や、淡水の先の漁人碼頭に行く人も多いようであるが船が小さいので結構揺れていた。
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