2005年12月06日

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(生い立ちの記:29) 浚渫船研究統轄(1)

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H造船所からH研究所に移籍して間もなく波浪外力解明のための国家プロジェクトに参画したが、一連の実船試験が終わるとそのデータ整理が大仕事となった。
データの量が膨大なのである。
数年掛かってやっとこの研究プロジェクトも終えることが出来た。
テレビ局も取材を打診してきたが職場の管理者は微妙な問題を含むからと謝絶していたようである。

その後、船体局部構造の疲労強度の研究を大型模型の疲労試験や、有限要素法による応力分布の推定などに従事したがあまり印象に残っていない。
船体構造強度を対象とする新しい研究室がN地区に発足し、H研究所から転勤してしまった。

残留部隊は鉄骨や構造物・起重機などを対象とするグループと、石油掘削リグの開発研究をするグループが主体となった。

ちょうどその頃、好景気で国内では浚渫工事の小ブームが訪れ、スエズ運河・パナマ運河・ペルシャ湾岸の産油国などから浚渫工事や浚渫船の商談が舞いこんできていた。
幸い、船舶事業本部は大きく予算規模も潤沢であったが、それにも増して本社の船舶技術部や船舶開発部などにある程度知ってくれる人が居たのが有難かった。
事業本部としての研究開発費は大きかったので、研究テーマ毎に試験研究予算を起案し、事業本部・技術本部のキーマンに説明し、造船設計部長会議などに上程すると認可になった。
これで実験要員を含む研究員十数名分の研究工事の予算と仕事量を満たすことが出来た。
この関係の研究予算は年平均2億円あまりであったと思う。

その頃の大規模プロジェクトで実現しなかった案件に東京湾ヘドロ浚渫があった。
海水の富栄養化や温暖化で瀬戸内海などで大規模な赤潮が発生し社会問題となっていた頃のことである。
3億立米とも言われる東京湾のヘドロ除去は、後の関西新空港の人工島より大きなプロジェクトであった。
このために大型ドラグサクション浚渫船や、陸揚げしたヘドロの処理プラントなどを計画し某省調査官に説明するために何度か上京した。

H研究所の実験課でこんなことをしていたので、浚渫船研究統轄に任命され実験課の係長は1年で海洋開発研究室に戻されてしまった。

これから幾つかの事例を挙げてゆく予定である。


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