2005年11月06日
ツェッペリンとドルニエの足跡
今日は日曜日。Y大学も昨日・今日と大学祭が開催されている筈であるが、朝からしっかり雨が降っていて何処にも出る気がしないので地図を眺めていた。
ドイツ全土を10万分の一でA3・500頁に収録したADAC Profi Atlas である。
ドイツに行けば、C.ドルニエが Do J "Wal" や Do X を開発した処や、ツェッペリン伯爵が一連の硬式飛行船を建造した場所を訪ねたいと思っている。
ツェッペリン伯爵はドイツの英雄・偉人であった。
彼が1917年に亡くなったあと後継者になったエッケナー博士が1933年の新聞の見出しにに「ヒンデンブルクの後に来るのはヒトラーかエッケナーか?(Kommst nach Hindenburg Hitler oder Dr.Eckener? )」と掲載されたほどであった。
ツェッペリンの硬式飛行船は「LZ130:グラーフ・ツェッペリン(2代目)」のあと建造されることはなかったが、現在はツェッペリン飛行船技術有限会社がカーボンファイバーフレームの半硬式飛行船を製造しており、(株)日本飛行船の購入した「ツェッペリンNT」(登録記番号:JA101Z、愛称『ようこそジャパン号』)が国内をお披露目飛行している。
ツェペリン飛行船誕生の地は言わずと知れたフリードリッヒスハーフェンである。
ここには飛行場も格納庫もある。間違いはない。
フリードリッヒスハーフェンには「ヒンデンブルク」の実寸部分模型(40m)の設置されているツェッペリン博物館もあり、開館の1996年7月から6年間で200万人の入場者があった。
問題はドルニエの飛行艇工場である。
観光ガイドブックにはメーアスブルクの新城(Neues Schloss)にはドルニエ博物館があり、旧城(Altes Schloss )にはツェッペリン博物館があると紹介されているが、近くには飛行場のようなものは見えない。
アルテンラインというカタカナの地名を頼りにProfi Atlas を捜してやっと見付けた。
ボーデンゼーの南岸、ライン川の川口に Altenrhein の文字を見付けた。
そこには飛行場もある。ここに違いない。
ここで、第一次大戦で敗れて苦しいなか、ドルニエは双発の飛行艇 Do J "Wal" を拡大した12発の巨人飛行艇を開発したのである。
建造当時ここを訪れた見学者の一人は「それは飛行機の製作とは思えなかった。まるで駆逐艦の造艦工事のようであった。」と述べている。
是非行ってみたいが大体造船所や航空機工場などのあるところは不便な処にある。
初めての訪独では無理かも知れない。
ミュンヒェンのドイツ博物館あたりで良いことにするかもしれない。
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上の切手はロシア発行のものでモスクワを訪問した「グラーフ・ツェッペリン」、下の切手はマルタのものでドルニエ「ヴァル」が描かれている。
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ラック崩壊
昨夜ブログを記載中に、ちょっと確認したいことがあって書庫にしている隣の洋間に入った時のことである。
ふと気がつくと長さ2m、幅0.5m、5段のスティールラックが音もなく傾き始めた。
数百冊の書籍や雑誌の重さに耐えかねて挫屈したのである。
このまま倒れると向かい側の書架を傷める恐れがあった。
倒れかかったスティールラックを支えた状態で大声を出してJを呼んだ。
幸い、すぐ来てくれたので3段目・4段目・5段目に載っているものを降ろして貰った。
既に相当傾いており、滑り出したら二次被害が起きるからである。
ちょっと支えて貰っておいて傾いてきているラックを背中で支えるように書架との間の僅かな隙間にもぐり込んだ。
ジャンバルジャンが背中で倒れた馬車を支える図である。
素早く荷下ろしをやってくれたので何とか崩落寸前で仮保持する事が出来た。
それにしても、安芸灘大地震のときに倒れずにいてくれたものだと今更のように思った。
春から軽トラック2〜3台分廃棄物を出したがまだまだ減らさねばならないらしい。
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