2005年06月27日

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(生い立ちの記:11) 戦後の造船界事情

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第二次世界大戦で壊滅的被害を受けた日本商船隊は、1945(昭和20)年9月3日にGHQの管理下に置かれたが、同月15日には終戦時工事中であった新造船・修繕船の工事続行が許可された。

復興のためには国内外の輸送手段が不可欠だったからである。

外地からの復員輸送のため翌年早々、リバティ船(米戦時標準船)、LST(米戦車上陸用輸送艦)各100隻ほかの船舶が貸与され、GHQは5月には食料確保のため漁船の、7月には小型客船55隻、鉄道連絡船17隻の建造を許可した。

1947(昭和22)年に船舶公団が設立され、翌年1月に第一次計画造船8隻が、6月には第二次計画造船28隻が、同10月には第三次計画造船24隻の建造が許可された。

吉田内閣が組閣された昭和24年には第四次、第五次計画造船が許可され、1951(昭和26)年には外航船40万総トンの建造が許可され、少しずつ造船所が造船所らしい仕事を出来るようになった。

とは言っても当時の某造船所のデータで見ると、年間建造量は1950年台で 2〜6隻:7〜64千総トン程度と、1973/4年のピーク時(9〜10隻:520千総トン)の 1〜12%程度であった。

そんな状態であったので、大手造船会社に就職できた船舶工学科/造船学科の先輩諸氏は卒業生の3分の1程度という時期もあった。

造船所で仕事が出来るならどこでも良いと思っていた。
設計もやってみたかったし、現場の担当技師にも憧れていた。

2/3年生の頃、池田内閣が成立し、同首相の所得倍増論のせいでもあるまいが景気が上昇機運にのっていた。

日本の新造船建造量は欧州勢を押さえて数年前からトップを走っていた。
工事量不足で一時帰休していたことが信じられない状態が来たのである。

それで卒業する前後3年くらいは、三菱造船でも、川崎重工でも、日立造船でも、石川島播磨でも行きたいところへ行ける状態になっていた。
卒業生の7割程度が大手造船会社に就職した。

某社ではその頃、大学新卒の採用人数が数百人であった。
ある企業では同じ造船所の造船設計部同一設計課に、某大学の船舶工学科の新卒が3人配属される事例もあった。

そんな幸運に恵まれて4年生になって間もなく面接を受け、5月にはM社から内定を貰うことが出来た。

写真は月刊雑誌「世界の艦船」通巻599号から転載した。


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