2005年06月25日

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(飛行艇の時代:16) 川西大艇

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私が飛行艇という言葉で、最初に頭に浮かぶのは川西の4発大型飛行艇である。

この飛行艇は「九試大型飛行艇」の名が示すように日本海軍の要求仕様に基づいて、長距離哨戒・索敵・爆撃を目的に試作されたものではあるが、その優美な姿は軍用機には似つかわしくない。

もっと平和な時代に生まれていれば世界に雄飛したであろうと思う。

長大な航続距離と滞空時間を得るために翼面荷重を押さえてアスペクト比の大きい主翼とスマートな艇体にしたため、ペイロードはそれほど欲張っていない。

離島への交通・連絡と郵便・小荷物の輸送がこの艇に適した業務であろう。

大日本航空では、横浜を起点に、サイパン・パラオ・トラック・ポナペ・ヤルートそれにチモールを結び、淡水・サイゴン経由バンコックにも路線開設の計画があった。

「生い立ちの記」の4回目では大日本航空海洋部が運用したのは従来一般に言われていたように18艇と書いたが、大日本航空関係者の記録では民間登録記号付きの艇体は23機であったと言われている。

各艇には「黒潮」「綾波」「敷波」「磯波」「漣」「白雲」「巻雲」「叢雲」「東雲」など雲や波にちなんだ艇名がつけられていた。

上の写真では、中央部客室・後部客室にあたる舷側外板に丸窓が並んでいるのが判る。

下の写真は後部客室内部で、一人掛けの座席は3段のリクライニングであり、窓にカーテンが取り付けられている。
艇首側の向かい合わせになった席の間にはテーブルが見える。

頭上に取り付けられた網棚が当時を偲ばせる。

1942(昭和17)年に封切られた東宝映画「南海の花束」は、川西大艇の南洋委託統治領に向けての長距離新空路開拓の苦難を描く名画で、戦前からの航空ファンに語り継がれているという。

この飛行艇の要目などについては「生い立ちの記」の4回目に掲載したのでご参照願う。

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