2005年06月10日
(生い立ちの記:8) それから幾年か過ぎて
引上げてきた年に、本籍地で小学校に入学した。
終戦直後の内地はどこも荒廃していた。
その年の冬に岩国に転居し、ここで初めて雪を見た。
岩国東小学校に転校した。
翌1947年、広島市内に移ったが、広島は焼け野原で、原爆砂漠と言われていた。
当時の己斐駅(現在の西広島駅)から広島市内が見渡せた。
視界をさえぎるものは何もなかった。
レンガ建ての建築は瓦礫となり、木造の柱や梁・垂木などは生き残った人達の薪となっていつの間にか無くなって行ったが、焼けて変質した瓦や、溶けて曲がったガラスなど現在原爆資料館に展示されているようなものが足元に散乱していた。
都市計画も区画整理も簡単だった。
白地図に線を引くだけで決まった。
地権者も家主も居なかったからである。
市内の小学校も原爆で吹き飛んで屋根や壁の穴から空が見えるようなバラックだった。
これが建つ前は、青空教室だったと言う。
従って、広島に来てからは市内を転々とした時期が続いた。
最初は皆実小学校、次いで荒神小学校・中島小学校と転校し、4年生の頃、幟町小学校に移りそこで卒業した。
終戦直後で、カリキュラムも統一されておらず、ひらがなから始める学校もあったし、カタカナから始る学校もあった。
掛け算をマスターしたあとで、足し引きを習っているところに転校したこともある。
転校する度に、クラスメートから教科書を借りて帰り、父が一晩で一冊づつノートに書き写してくれた。
中学に入る頃から少しずつ町らしくなっていった。
この頃から飛行機や船に興味を持つようになったようである。
そのころはまともな乗用車はなかった。
馬車が物を積んで町中を行っていたし、バタンコと呼ばれた三輪トラックが幅を利かせていた。
引越しは大八車と相場が決まっていた。
父が買ってくれた子供用年鑑に、キャデラック・ビュイックなどの挿絵があったが無縁の存在でしかなかった。
もし、その頃乗用車がいたらもう少し自動車に興味を持つようになっていたかもしれない。
その年鑑には「ユナイテッド・ステーツ」の挿絵もあった。
その頃、客船といえばユナイテッド・ステーツと思っていた者が多かった。
未だにこの船を最終的にどう扱うのか決まっていないようである。
アメリカ客船史でただ一隻、世界に誇れる船であったユナイテッド・ステーツを簡単にスクラップに出来ない心情も判る気がする。
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