2005年05月06日
(飛行船:1)グラーフ・ツェッペリンやヒンデンブルクの頃
1932年に量産が開始されたドイツのユンカースJu52・3発旅客機は世界名機100選にも選ばれる万能機で「Tante-Ju」という愛称で広く知られていたが乗客定員は15名前後、航続距離も1000キロあまりであった。
その4年前の1928年に完成した硬式飛行船LZ−127「グラーフ・ツェッペリン」には10のキャビンに20名の乗客を乗せ、ダイニング兼用ラウンジも設置されており、豪華船のようなディナーを楽しむことが出来た。
当時、客船は北大西洋を4日で横断していたが飛行船では2日足らずで渡ることができた。
航空路開拓時代に飛行船は飛行機を大きく上回った存在だった。
その意味で航空機の発展過程を語るとき、飛行船を無視するわけには行かない。
しかし、当時の飛行船は浮揚するためのガスに水素を使っていたために大きな事故を幾つか引き起こしている。
「ヒンデンブルク」号は1937年5月6日、フリードリッヒスハーフェンからニューヨークに飛来し、レークハーストに着陸する際、爆発炎上し35人の犠牲者を出した。
このため硬式飛行船は姿を消したが、軟式飛行船はその後も細々と使用されてきた。
1996年にアトランタで開催されたオリンピックでは開会式・閉会式の模様を上空の軟式飛行船から中継していた。
現在世界で飛行している飛行船の数は40機あまりで、このところ横ばいである。
平成14年に、飛行船の運航による広告・航空撮影・測量・遊覧などを目的に㈱日本飛行船が設立され、このほどドイツから軟式飛行船を購入した。
大株主は日本郵船で資本金3.4億円のうち2億円を出資している。
購入した飛行船はツェッペリン NT型(全長75m、最大幅19.5m、エンベロープ容量8225立米)で、乗員2名のほか、乗客12名で、イベントにあわせて国内を移動している。
私は、飛行船の将来についてはあまり楽観視はできないと思っている。
たとえヘリウムガスを使う場合でも、あのあまりにも大きい風圧面積の船体を操作することは容易でないからである。
米国の「シェナンドア」(ZR−1)はヘリウムガスを充填されたが、1925年にダウンバーストで地表に叩き付けられて、後部にいた乗員は全員即死となった。
しかし、柘植氏の著書「ノスタルジック写真集:ツェッペリン飛行船」に掲載の219葉(除飛行機関連29葉)のうち、飛行中の船窓から撮った素晴らしい108葉の写真を見ていると用途によっては存続の可能性があるように思えてきた。
世界各地の観光資源を絶好の視点から、眺めたり撮影出来る点は他では得られないポイントである。
ただし「乗り込んだら狭い座席に座りっきり」では最近の飛行機の欠点だけを踏襲することになる。
せめてグラス(ワイングラスかオペラグラスか?)片手に右舷・左舷に自由に歩きまわれる自由度は欲しいし、ピアノはなくてもギャレーは欲しい。
(LZ−129「ヒンデンブルク」号にはラウンジにピアノが搭載されていた。)
と願望は際限なく広がってしまう。
しばらく様子をみることにして、ここでは「飛行船時代」の写真や記事を紹介してみようと思う。
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