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2. 動力による長距離移動の歴史

汽船は昔から大西洋を横断したように思われているが、航洋船舶が蒸気機関を継続使用して北大西洋を横断したのはライトの初飛行する65年前、ツェッペリン飛行船の初浮揚から6年前のことで、それまでは「サヴァンナ」のように蒸気機関を補助動力とした帆船であった。

しかし産業革命以降、製品の販売先確保と剰余人口の植民地への移民により急速に海上輸送が増加し、建造される船舶は大型化とともに隻数も増加していった。当時は乗客も貨物も輸送する貨客船であったが、乗客の争奪競争が著しくなり、その結果各国の海運会社のあいだでスピード競争が激化した。「ブルーリボン」競争として世界的に有名になったが、ドイツの著名な客船史研究家であるアーノルド・クルダスも述べているように、ブルーリボンは決して公式な賞ではなく、如何なる協会や学会から一度も授与されたことも承認されたこともない。
当時は高出力・高速度を誇示するためにダミー煙突まで立てて4本煙突が標準のようになっていた。「ブルーリボン」の記録保持船を眺めてみると1898年のカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ(独:北ドイツロイド)から1909年のモレタニア(英:キュナード)まで10年以上にわたってタイタニックのような4本煙突の船が並んでいる。
そして、20年以上も保持していたモレタニアからブルーリボンを奪還したブレーメンはそれらと対照的な低く太い2本煙突と、美しい曲面で被われた上部構造前面を持ったエポックメーキングな船容で、既存のライナーを一挙に旧式化したスーパーライナーであった。
ここでは北大西洋客船の代表としてブレーメンを取り上げる。

飛行機が20世紀に発明されたことはよく知られているが、世界で最初に定期航空路を開設したのはツェッペリン飛行船によるDELAG(Deutsche Luftschiffahrts Aktien Gesellschaft)であった。
1909年に初飛行した「LZ6」は34回の飛行で726名の乗客を乗せている。その後「LZ7:ドイッチュラント」、「LZ8:ドイッチュラント(Ⅱ)」を運航したが順調なスタートは言えなかった。1911年の「LZ10:シュヴァーベン」、その翌年の「LZ11:ヴィクトリア・ルイゼ」、「LZ13:ハンザ」、1913年に出来た「LZ17:ザクセン」と経験を重ねてきたが、1914年に第一次大戦が始まった。
飛行船は兵器としては役に立たなかったが、100隻以上の飛行船を建造し、運用したことで建造技術・運航両面のおける蓄積は大きかった。戦後に建造された「グラーフ・ツェッペリン」はヨーロッパ・南米間、のちに北米へ定期運航を行い、一人の死者も出すことなく9年間の寿命を全うしている。
しかし、1937年にレークハーストの「ヒンデンブルク」爆発炎上で飛行船の時代は突然終焉を迎えた。

世界各地に植民地を持っていたイギリスは、その全域に追加料金なしにエアメールを届けるというエンパイア・エアメール計画を立て、ショート社の提案した新設計飛行艇の仕様書を見て28艇の大量発注を行った。「C」で始まる固有艇名から「Cクラス」と呼ばれたショート・エンパイアである。
アメリカでは、パン・アメリカン航空がカリブ海方面に運航していた飛行艇を太平洋路線に広げようと要求仕様書をまとめてメーカーに提示した。これに応じて開発されたのが、シコルスキーS42、マーチンM130などの4発飛行艇である。
大航海時代の高速帆船にちなんでつけられた艇名からクリッパーと呼ばれていた。途中の島々に寄港してカリフォルニアから香港へ6日かかったという。
しかし、各国の保護主義政策から大国の利権に摩擦を生じ、またも戦雲が兆してきた。1941年に対米平和交渉のため、東京からワシントンに向かった来栖特命大使は、北太平洋航路の客船がすべて休航になっていたため、横須賀から台湾に海軍機で飛び、台湾からマカオには海軍飛行艇で、夜間マカオから香港に船で渡り、香港からマニラに米国民間機で、マニラからボーイングB314飛行艇「チャイナ・クリッパー」でグアム・ウェーキ・ミッドウェー経由ホノルルへ行き、そこから同「カリフォルニア・クリッパー」でサンフランシスコまで飛んだと言われている。
B314はBOACにも引き渡され、欧米間を連絡していたがそれも第二次大戦のため途切れ、飛行艇の時代も長く続かなかった。

戦後は払い下げられた輸送機と世界各地に整備された滑走路で陸上機の時代になった。
1950年代後半に大型ジェット機が導入され、相前後してエコノミークラスが新設されたのである。

ここでは、それ以前の古き良き時代の「航海」を振り返ることにする。