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客船ブレーメン概史

ブルーリボン客船の生涯

アクセル・ボバー(国際海事シリーズ(1))


客船「ブレーメン」

運航会社:北ドイツロイド
造船所:デシマーク社、ヴェザー造船所、ブレーメン
姉妹船:オイローパ
造船所:ブローム・ウント・フォス、ハンブルク

「ブレーメン」は建造番号、第872番船として起工された。
総トン数は 51,656トン、純トン数 21,656トンであった。
全長 281.6メートル、垂線間長 270.7メートル、船幅 31.06メートル、喫水 10.5メートルであった。

ブレーメンの原動機は、強力な4基のヴェザー型減速ギア付タービンで、1基あたり重量17トン、直径5メートルの4基のスクリューを駆動していた。出力は12万5千軸馬力で27ノットであり、13万5千軸馬力まで上げると28.5ノットの速力を出すことが出来た。乗組員は990~1025名であったが、ムルマンスクから脱出の際は、全部でわずか124名であった!乗客は2200名まで輸送することが可能であった。
その内訳は次の通り

一等:800名
二等:500名
ツーリストクラス:300名
三等:600名

この船の大きさを想像しやすいようにつけ加えるならば、2本の煙突はそれぞれ直径6.2メートルであり、水面上の高さは35メートル、キールからでは44.5メートルにも及ぶ!キールからマストの旗竿頂部までの高さは前檣で70メートル、後檣で72メートルであった。それぞれの船には錨泊用装備があったが、ブレーメンには重量15トンの錨が3本装備され、3連の錨鎖の長さはそれぞれ600メートルであった。

客船ブレーメンの建造費は4百万ライヒスマルクで、内装にはさらに7百万マルクが充てられていた。
外見上目立つ新規装備は舶載カタパルトであったが、そのほかにも様々な装備が施されていた。
同船は1927年6月18日に、ブレーメンのデシマーク造船会社ヴェザー造船所で起工された(DESCHIMAG:Deutsche Schiffundmaschinenbau Aktiengesellschaft)。
1928年にツィーゲンバイン船長が、北ドイツロイドから艤装員長に任命された。
ストライキにより工事は遅延し、14ヶ月後の1928年8月16日に進水した。
造船所の岩壁でブレーメンの艤装工事が行われた。
ヒンデンブルク大統領が命名し、その船が常に「幸運な航海」を行うように祈った。
1929年6月24日に、遂に完工し竣工となった。

ブレーメンからブレーマーハーフェンまでの曳航中に、ファルゲ近くで問題に遭遇したが、何とか乗りきることが出来た。ファルゲ近郊のヴェザー川に高圧電線が張られていたのである。ブレーメンのマスト先端を取り外して目的地ブレーマーハーフェンに到達することが出来た。

1929年6月5日は北ドイツロイドの祝日になった。タービン船ブレーメンには厳かに社旗が掲げられ、ドイツ商船隊のなかで最も大きく最も素晴らしい船舶としての業務が開始されたからである。
ブレーメンの処女航海は、夥しい見物人に見守られながら1929年6月16日に挙行された。
後にコモドア(上席船長:これに相当する日本語の職名はない)になるレオポルト・ツィーゲンバイン船長の指揮のもと処女航海の航程はブレーマーハーフェン→サンザンプトン→シェルブール→ニューヨークであった。この「処女航海」でブレーメンは「ブルーリボン」を獲得した!当時世界最大のブレーメンはリザード岬からアンブローズ水道燈台船まで、4日17時間42分で航走し、逆向きの復航では4日と30分で走破した。
これは時速に換算すると27.80浬に相当する。

1930/31年にブレーメンは、姉妹船オイローパにブルーリボンを奪われた!オイローパは平均時速27.91ノットの記録を達成したのである。1929年6月の処女航海で、ナンタケット燈台船に到達し、ブルーリボンを獲得した後、ブレーメンは船上から舶載水上機を発進させることに成功した。安全のためにハインケルHe12「D-1717」を合衆国沿岸沖合500浬ではなく180浬から発進させたのである。カタパルトによる発進は支障なく実施され、1時間の飛行のあと、He12はニューヨーク港区に着水した。当時としては並外れたこの功績を残したことからニューヨーク市長ジミー・ウォーカー氏によって、同機を「ニューヨーク」と命名された。

ハインケルHe12は、ブレーメンのカタパルトから発進される郵便機として特別に計画された水上機であった。
同機は複合構造方式で、エンジンは出力450馬力のプラット・アンド・ホイットニー社製ホーネットA型であった。
1020kgの貨物(郵便物)と2名の乗務員を乗せて上昇限度4千メートルで、最高速度は時速216kmであった。復航では「1717」はシェルブールの手前で射出された。He12はブレーマーハーフェンまで800kmの距離を4時間で飛翔した。こうして、郵便送達時間を24時間短縮出来ることが証明されたのである。

姉妹船オイローパは別機種の郵便機を搭載していた。これもプラット・アンド・ホイットニー製450馬力エンジンを装備していたが、違いは積載量が多い点であった。1290kgにも及ぶペイロードを積み、上昇限度3800メートルで、最高速度は毎時204kmであった。
1933年6月、ブレーメンはデシマーク社ヴェザー造船所で、機関部の改良と船尾の不快な振動対策工事が行われた。その後ブレーメンは28.14ノットで航行し、速度記録を樹立している。
同年、ブレーメンは姉妹船オイローパに、オイローパはイタリアの客船レックスに、そのタイトルを譲渡せざるを得なかった。イタリアのレックスは28.16ノットを達成したのである。

ブレーメンはその翌年、順調に運航スケジュールに従って航行した。
1936年に人事異動があり、アーレンス船長がブレーメンの指揮をとることになった。

1938年にブレーメンは通常の運航と異なる魅力溢れる業務に就いた。ヨーロッパに冬が訪れているあいだ、えり抜きのアメリカ社交界の面々を乗せて、ニューヨークからパナマ運河を通り、南米を巡るクルーズに出たのである。
それは困難も伴ったが、興味深い航海であった。ブレーメンのような大型船がパナマ運河を通過出来るかどうか懸念もされた。この航行の準備には特に細心の注意を払い綿密に計画された。ドイツ流の徹底ぶりは、外国ではときに苦笑されることもあった。そのクルーズは1938年2月11日に出発し、40日間に及ぶものであった。

その航路は次の各国を訪れるものであった。チリ、ウルグァイ、ブラジル、それにトリニダード島である。
支障なく、およそ1万5千浬を走破した。ここでは特にパナマ運河通過について述べておく必要があろう。1939年、政治的局面に暗雲が兆していた。それにもかかわらず、1939年8月22日にブレーメンはヴェザーミュンデからニューヨークに向けて出航し、1939年8月28日17時42分に到着した。微妙な政治的条件によって、乗客を乗せずに緊急に出航する必要に迫られた。合衆国はドイツに対して明確な態度を示すことが出来なかった。一方でイギリスとの友好関係を無視することも出来ず、ブレーメンは危険に曝されることになった。

アーレンス船長はボイラーに点火を命じたが、合衆国当局は「規定による任務」により、ブレーメンをさらに2日間拘束した。8月29日に合衆国大統領ルーズベルトは新中立法に署名し公布した。それにより、出航するすべての外国籍船舶には厳密な臨検が実施されることになり、場合によっては「禁制品」あるいは武器が捜索され、押収されることになった。臨検は徒労に終わったが、合衆国税関はさらに船舶検査官の計画に基づく立ち入り検査に踏み切った。船上であらゆる避難訓練と救命艇演習が実施された。検査と救命艇演習は現行規定通り、100%全艇を海面に降ろして実施された。救命胴衣全数の数量確認と格納状態も検査対象であった。しかし、それでも何も欠陥は見つからなかった。合衆国報道陣さえ、ブレーメンの全救命艇の完璧な演習をちょっとしたセンセーションとして報道していた。

1939年8月30日、遂にブレーメンに出航許可が出た。18時33分にニューヨークからブレーマーハーフェンに向かう出港作業が始まった。本船の第190航が始まったのである。1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、イギリスが9月3日に宣戦布告したので、大きく北を迂回する航路がとられた。アイスランドとグリーンランドの間を通り、北からドイツに到達するつもりであった。

しかし、ブレーメンは1939年9月3日付けの暗号無線指令でドイツに帰国してはならぬと言う指示を受けた。船長はムルマンスク港へ向かうように指示されたのである。つまり、ソ連への進路変更である。それで乗組員全員で、船体に灰色の迷彩を施す作業にあたった。船橋もほかの重要な船室と同様に(弾片防御のために)マットで防御された。これで不意の空襲に対してある程度防御できると考えられた。
1939年9月7日、ロシアの駆逐艦から最初の連絡を受けた。その指示は次のようなものであった。
「コラ・フィヨルドに入るべし。そこからロシア当局の指示に従いサイダ湾まで行き、そこで最終的に投錨すべし。」
ブレーメンがムルマンスク規制区域の埠頭に長期間係留することは、ロシア当局にとって決して好ましい案ではなかった。そこで彼らはサイダ湾の方が泊地に適していると主張した。

但し、そこには非常に大きな問題があった。サイダ湾は幅500メートル、深さ90メートルで海底は岩だらけであった。当然のことながら船長はこのような大型船が投錨する場所を何処にも見つけることが出来なかった。それに対してロシアの水先人はアルハンゲルスクを代換港にするように提案してきた。しかし、ドイツ側はムルマンスクに固執した。巧みな交渉と船舶運航者の不屈の精神により、最終的にロシア当局を譲歩させた。ブレーメンはボイラーに点火し、ロシア国境警備警察を随行して水先人がやってきた。
いまやムルマンスクに移動するばかりとなった。しかし、その前にすべてのカメラが国境警備警察により封緘されてしまった。封鎖区域であるという理由によるものであった!
ブレーメンがムルマンスクに到着し、投錨したとき航行距離はニューヨークを出港して4045浬に達していた。所要時間は6日13時間36分であった。この業績によりブレーメンの北ドイツロイドからの無線通信により、アーレンス船長は船隊コモドアに昇進した。高速汽船ブレーメンは、こうして世界最北の軍港に到着したのである。
この時点における乗組員数はおよそ900名であった。投錨すると、すぐにロシアの税関が乗り込んできた。最初の処置は次の事項を把握することであった。すなわち、すべての光学機器の保管区画を封印し、無線および電信室にもこの措置をとり、売店と販売カウンタを閉鎖した。そこには支払い能力のある乗客は居なかったからである。共同受信のための無線局には手をつけられなかった。ブレーメンの主計長ローデは重大な問題に直面した。かけがえのない食料品をニューヨークで補充することが出来なかったのである。

上陸許可証がないことが更なる妨害となった。それなしには本土に上陸することが出来なかったからである。交渉相手は、ときに納入業者にもなったが、値段を決める行政部門だけであった。おまけに、船内各区画は資金不足に見舞われ、ロシア当局との交渉のための訪問や支援を申し出た在モスクワ・ドイツ大使館からの電報も役に立たなかった。最初の処置であり、最重要実施事項は、モスクワのドイツ大使館の外交官であるフォン・ヴァルター博士による上陸許可証の交付であった。ここで述べておかなくてはならないのは、この手続きもまた障害がなかったわけではないと言うことである。その間に、さらに何隻かのドイツ籍船舶がムルマンスクに入港してきた。それらの船のなかで、有名な船舶はセント・ルイスとニューヨークであった。問題はムルマンスクに停泊している船舶への補給で、それはますます難しくなった。
最大の船舶であるブレーメンが、海上で補給を待つ他の全船舶に対する補給拠点に指定された。既述のように、上陸許可証交付の遅延で、すでに5日が経過しており、現地の状況下では、当然ながらもう時間は残っていなかった。そのためにロシアはドイツ側の船舶無線施設の運用を許可した。
しかしながら全く突然、駐モスクワ・ドイツ大使館のフォン・ヴァルター博士は次のような知らせを受けた。ドイツ船舶の乗組員の大部分をドイツに帰国させよ、というものであった。ブレーメンでは、およそ800名が対象となった。1939年9月18日、ロシア政府の仕立てた2組の特別列車がムルマンスクに到着した。その日の午後、およそ千人のドイツ海員が、レニングラードに向けて、その寂しい港を後にした。
人事問題が解決するやいなや、今度は別の問題が発生した。ボイラー用の燃料である石油の問題である。しかしながら、どの油種でも使用できるわけではなかった。ムルマンスクの何処で、規格に合致する石油が調達出来るのだろう?そのとき、奇跡は起こった。1939年9月29日、ドイツの油槽船ヴィルヘルム A.リーデマンが、正当な等級の石油を積んでムルマンスクに迷い込んで来たのである。ベルリンに照会すると積み込みが許可された。こうしてブレーメンは燃料を満載することが出来たのである。

ソヴィエト連邦とフィンランドの間の軍事紛争の突発によりムルマンスクの泊地は当面、危険地帯と思われた。これに伴って、故国に向けた1600浬の航海が検討された。ドイツへの慎重な問い合わせが始まった。

1936年12月6日の早朝、ブレーメンにロシア海軍曳船が近づいて接舷した。本国に戻っていた57名のドイツ船員が、もう一度ブレーメンに乗船勤務しないかという再照会に志願してきた。これらを併せて、乗組員は124人に増えた。12月の9/10日の夜、ついにロシアの水先人が乗船し、早朝2時に小さなソヴィエト曳船と合流し、多大な苦労と大勢の人たちにより、ブレーメンは錨を上げることが出来た。しかし、不意の悪天候に見舞われた。強い吹雪が見舞い、視界はゼロに等しかった。だが、この気象条件は絶好の隠れ蓑となった。
ノルウェー海岸近くで厄介な問題に遭遇した。真夜中、およそ10浬離れたところでサーチライトで探索している1隻の船が認められた。ドイツの防御用機雷敷設海域に到達する前にブレーメンを捉えようと探索していた敵の駆逐艦であった。しかしながら、幸運なことにブレーメンはドイツの機雷封鎖領域に到着し、そこから先はドイツ空軍の飛行機が飛来し、敵の攻撃から護られたのである。

航路誘導の合流点に到着後、主機が停止された。ドイツ海軍の魚雷艇が闇の中で接舷した。乗船した水先人は、それが自ら誘導することになっていたブレーメンであったと知って仰天した。

突破計画は完全に秘密裏に行われた。いまや、魚雷艇がブレーメンを直衛し、飛行機が広範囲を警戒することになった。潜水艦による危険は大きかったが、最終的には空軍がそれを排除することになり、ブレーメンは魚雷艇の護衛のもとでジグザグコースをとり、機雷原を安全に航行することが出来た。1939年12月13日の21時に、ブレーメンはヴェザー河口のホーヘヴェグ燈台に到達した。
低水位であったため、ウンターヴェザーに投錨せざるを得なかった。12月14日、北ドイツロイドのタグボート、シュタインボックの協力でブレーメンは帰り着いたのである。タグボートには、交通大臣とともに北ドイツロイドの総支配人の姿も見え、本船とその乗組員に挨拶を行った。アーレンス船長とその士官たちは沢山の祝辞と心からの握手とともに迎えられた。ブレーメンは、イギリスの周到に用意された探索にもかかわらず、敵方の封鎖を僅かな損傷もなく突破することに成功したのである。

ベルリンの海軍当局は当然ながら、始まったばかりの戦争でブレーメンをどう利用するかを計画していた。決定はすぐに下った。ブレーメンはドイツ海軍の宿泊船として組み込まれたのである。そのために妙な迷彩が施され、同時に兵員輸送船としての任務も課せられた。イギリス占領を目論んだ「あしか」作戦への出動もあると考えられた。
ブレーメンには、すぐに802号という識別番号が与えられた。同時に、それまで乗客が高く評価していた、快適に過ごすためのあらゆる設備の撤去が始まった。そして共同寝室が設けられたが、知謀に長けた幹部は、このような大型船には容易に装甲車や類似の重装備を輸送することが出来ると考えた。

その間に、アーレンス船長は、ほぼ50年近い海上勤務のあと、健康上の理由で退職していた。後任には1等航海士ロレンツが任命され、ブレーメンが悲惨な最期を遂げるまで指揮をとった。ロレンツ船長は精力的な人物で、客観的論拠に基づく巧みな交渉術によってブレーメンを本格的輸送船に改造することを阻止した。そうしてブレーメンはドイツ海軍の宿泊船として埠頭に繋がれ、良き日の来ることを待ち望んでいた。1941年2月中旬、まだ港内に繋留されて蒸気で状態を維持していたが、何も任務は課されなかった。

1941年3月16日、日曜日の17時頃、それは発生した。ブレーメン船上での火災である。驚くほどの速さで船体全域に広がっていった。ロレンツ船長はそのときブレーメン市で家族と過ごしており、乗組員の大部分は上陸していた。在船していた乗組員は食堂で夕食を摂っていた。2等航海士アンマーマンが火災に気づき、出火元を確認した。直ちに乗組員、港湾消防隊と消防艇に警報を出したが、火は瞬く間に広がった。船を救助するためのあらゆる試みは失敗に終わった。船は次第に傾き、ついには岩壁側に横転しようとしていた。そこでは、すでに舷側丸窓の最下列は水面下になっていたので舷窓を打ち抜き、そこから流れ込む海水で船体を引き起こすことが出来た。
勇敢な男たちの試行により、ブレーメンは傾斜を立て直し着底した。3月17日の払暁にようやく鎮火した。無傷のまま残されたのは機械設備だけであった。

翌週、汽船ブレーメンの上部構造を撤去するためにガス切断トーチの作業が行われている傍らで、火災の原因究明が試みられた。最終的に、経過と犯人を突き止めるまで数ヶ月を要した。火災の謀は取調室で明らかになった。
その板張りの食堂別室には、火が噴出したとき大量の空気マットが積み上げてあった。ただ、犯人が誰であるかは、長い間明らかにならなかった。

突然、ワルター・シュミットという15歳の見習船員が、自分がブレーメンに放火したと最終的に自白したのである!その動機は、ある上司から平手打ちを受けたことであったと告白した。若者シュミットは、同僚を「驚かせようとしただけだった」と述べた。軍法会議が開かれ、この若い男に死刑判決が下った。ワルター・シュミットが本当に火災の単独犯であったのか、敵対勢力の黒幕がそのたくらみに関与したのかはそれがどうであれ、確実なことはブレーメンの沈没とともに、ドイツの華々しい海事史も終焉を迎えたということである。